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インタビュー

発見!「名産品はじめて物語」

2015年07月01日

やっぱ芋だね!「九里よりうまい十三里」川越さつまいも!

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土地と名産品に歴史あり!
藩政時代から続く名産品には、その時代を生きた人たちの汗と涙が詰まっています。そんな名物の物語を紐解いていく「名産品はじめて物語」。埼玉県川越市の「川越芋」を紹介します!

洒落から生まれたキャッチフレーズ

「九里よりうまい十三里」という言葉をご存知でしょうか。これは、江戸日本橋から13里(実際には少し足りないが…)にあった川越藩の名物「川越芋」を指す言葉です。
江戸時代、秋の名物としてはサツマイモよりも栗(九里)のほうが上格で、サツマイモは「八里半」と言われていました。しかし、川越芋の焼き芋を販売する商人は、川越芋は栗よりも美味しいはずだからそのイメージを払拭したいと考えていました。
そこで、日本橋から川越藩がだいたい13里であること、くり(九里)より(四里)で13里になることから「九里よりおいしい十三里」と洒落の効いたキャッチフレーズで売りだすことになったのです。

江戸の町を支えた大生産地

18世紀、武蔵野台地の開拓に成功した川越藩は、サツマイモの一大生産地でした。
江戸の町は世界随一の人口密度を誇る百万都市でしたが、江戸の町には農村部がなく、食料自給率は壊滅的。そんな江戸の町の台所を支えたのが近隣の幕府領と親藩・譜代藩でした。川越藩は江戸の北の守りの要所となる場所で、親藩と譜代大名から歴代の藩主が選ばれていました。武蔵野台地(現在の三芳町付近)に広大な土地を持つ川越藩は、江戸の食糧事情を支えるのに欠かせない存在だったのではないでしょうか。
川越藩の芋が広く知られるようになったのは10代将軍徳川家治の時代。時の藩主松平直恒が家治に川越藩産のサツマイモを献上したところ、その美味しさに感動した家治が「川越芋」と名付け、その名が広がっていったとされます。

川越藩とサツマイモ栽培の戦いは、松平直恒の時代から遡ること約100年。世紀の奸臣と言われる側用人柳沢吉保の時代から始まります。

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日本橋から13里の川越城

サツマイモは今では和洋どちらのスイーツでも使われる秋の定番食材ですが、実は、原産国は中南米で、17世紀に中国経由で入ってきた渡来野菜です。
まずは琉球王国(現沖縄県)に伝わり、九州地方では、1705年に薩摩藩の山川で漁師をしていた前田利右衛門が栽培に成功したという記録が残っています。
薩摩藩は桜島の灰によるシラス台地で稲作に向かない土地柄でしたが、サツマイモの栽培には適しており、稲作に変わる救荒作物として藩内、そして西日本に広がっていきました。

収入を増やせ! 川越藩の新田開発!

時代は5代将軍徳川綱吉のころ。町民文化が花開いた元禄バブルの時代ですが、実はこのころ、全国的に新田開発がピークとなり武士の困窮の始まった時代でもあります。各藩で無理な新田開発を続け、自然災害が発生するなど江戸中期の混迷期が幕開けします。

綱吉は、三代将軍徳川家光の4男。長兄の4代将軍家綱が跡継ぎがいないまま病死してしまっため、館林藩主から将軍になった人です。将軍家に譜代の家臣がいなかった綱吉は、館林藩で幼いころから共に学んだ近習の柳沢吉保を連れて将軍家に入りました。
2人はいわゆる「ツーカーの仲」で、綱吉が政務を行う部屋のすぐ側で起きた刃傷事件をきっかけに、警護のため将軍への奏上はすべて吉保が行う側用人システムを確立。ときに綱吉の代わりに政治を行うこともあり、吉保は奸臣のレッテルを貼られています。

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足軽の家から幕政を動かすまでに至った柳沢吉保。川越では名君として名高い

川越藩主になった吉保は、自藩の収入アップのために新田開発を始めます。
川越藩に属する武蔵野台地は、富士山の火山灰で作られた赤土の関東ローム層で、乾燥すると粘土質の砂が風で巻き上がるという痩せた原野が広がっていました。この土地は近くに河川がなく、水の供給も見込めない不毛の大地とも言える場所でした。
吉保は、家と畑と防風林を1セットにした町割りで開拓を進め、風に強い町を2年かけて造成。武蔵野台地に約180戸分の耕地が誕生します。そして富んだ土地になるようにと上富、中富、下富の3つの地域で「三富」と名付けられました。吉保は幕府の人事により甲府藩へ移動となりますが、三富地区では吉保の町割りのままの姿を見ることができます。

江戸の危機を救うサツマイモ

広大な耕地ができた三富ですが、吉保の開拓以来水がないことが最大のネックとなっていました。
日照りが続いたときには4km以上離れた川まで水を汲みに行ったといいます。
このころの将軍は、紀州藩から将軍になった改革者の徳川吉宗。

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享保の改革を断行したことでも知られる“暴れん坊将軍”8代吉宗

吉宗の時代は、武士は困窮と裏腹に世の中は市場社会として経済が活発となって物価が上昇。武士とそれ以外との貧富の差が開き、幕府も借金で首が回らない時代で、吉宗はそれを是正しようと享保の改革を開始します。政治改革、経済改革と、旧来のシステムを抜本的に変更した吉宗の改革は、一旦は成功し、赤字続きだった幕府財政を黒字へと回復させます。
吉宗の感心事は、政治経済だけではありません。
この頃、天災による食糧難がしばしば起こっていました。吉宗は救荒作物としてサツマイモに目を向けます。温かい土地で育つサツマイモを江戸近郊で育てられないかと考えた吉宗は、儒学者の青木昆陽にサツマイモ研究を申し付けました。サツマイモが薩摩藩で栽培に成功して約100年のときが流れていました。
昆陽は、吉宗が開いた小石川薬園や下総、上総で栽培方法を研究し、見事、関東でもサツマイモが育つ栽培方法を見つけます。

さて三富はというと、吉保の開拓以降、水がない土地であったことから畑作や稲作には向かないことが農民たちの貧困の原因になっていました。
サツマイモが痩せた土地でも育つことを聞きつけた南永井村の名主吉田弥右衛門は、嘉永4年(1751)、200苗のサツマイモを買い付け、サツマイモ栽培を開始します。
元来サツマイモは、水はけの良い痩せた土地で育ち、むしろ肥沃な土地に向いていない野菜です。三富の気候、土によく馴染み、一大産地へと成長していきました。

そして、天明2年(1782)、日本列島は記録的な冷夏に襲われ、近世最大の飢饉である天明の飢饉が発生します。農村部を持たない江戸はすぐさま食糧難に陥り、危機を迎えていました。江戸近隣の各藩はすぐに江戸救出のために食料を輸出し、川越藩も三富で作られたサツマイモを江戸に送りました。これが江戸の人々を救うことになるのです。
そして、川越藩主松平直恒が10代将軍家治に献上したことで川越藩のサツマイモの名前が広く広まっていったのです。

川越芋と「紅赤」

現在、川越芋といえば「紅赤」ですが、「紅赤」は明治31年(1898年)、埼玉県木崎村(現さいたま市)で突然変異した品種です。
従来種よりもはるかに甘い「紅赤」は、埼玉県内で広く栽培されるようになりました。しかし、突然変異で生まれた「紅赤」は栽培が難しく、最終的にサツマイモの栽培に適している三富しか生産地としては残れませんでした。
「なると金時」「紅アズマ」など、現在では品種改良で生まれた甘いサツマイモが栽培されていますが、その中でも「紅赤」は自然発生的に生まれた品種として希少なサツマイモです。
川越藩の川越市や産地の三富地区がある三芳町では、シーズンになるとこの「紅赤」が購入できます。ぜひ、「九里よりうまい十三里」をご賞味ください。

(text 釘宮有貴子/KWC)

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